古来より武門による信仰される日本を代表する「鹿島神宮」とは!?
茨城県鹿嶋市にある日本を代表する神社「鹿島神宮」にやってきました! 「鹿島神宮」は、全国にある鹿島神社の総本社で、千葉の香取神社と対を成す神社としても知られています。 ここは、古来より由緒ある神社で、休日ともなれば御利益にあやかろうと多くの参拝客が訪れます。 ちなみに神社には、「神宮」、「大社」、「神社」によって違いが有り、「鹿島神宮」の「神宮」とは、天皇・皇族の皇祖神や、大和平定に功績がある神が祭られています。 また、「神宮」の「宮」字は、一部の「東照宮(徳川家康)」や「天満宮(菅原道真)」等の例外はありますが、基本的には皇室にまつわる人が祀られているものと覚えて頂くと分かりやすいです。 「大社」は、全国にある同名の神社の宗社、つまり暖簾分けした元祖の事を指します。 そして「神社」や「社」は、一般的な神社の事を指しています。 こういった事を知って参拝すると、何気なく参拝する神社めぐりが少し楽しくなります!
車で訪れた私は、「鹿島神宮」からほんの少しだけ離れた参道沿いの無料駐車場に停め参道散策を楽しみます。 歩きたくない人は、境内真横にある駐車場に1時間300円で駐車する事が出来ます。
参道の途中には、「鹿島神宮」の案内板と、なんとも有り難い布袋様?の石像が安置?放置?されていました。
また、龗神社(りゅじんじゃ)なる「高龗神(たかおかみのかみ)」、「闇龗神(からおかみのかみ)」という龍神を祀る小さな神社がありました。 表の表札には、「昔は鹿島神宮の水を守り、火を防ぐ神で御手洗池に二社、楼門の前後に四社、参道の両側に二社の八龍神と伝えられていますが、参道の二社が合祀されて、この龗神社一社となり、明治以降は当町の鎮守の社となっています。」と書かれていました。 たしかに防火用に八社は多い気がしますので、一つ減っても問題は無い筈です!日本人には昔から省エネ意識が在ったのですね!
串団子の様な石の台座に時計が埋め込まれた奇妙な時計台を通り「鹿島神宮」を目指します。 この参道沿いは、日曜日の昼間にも関わらずシャッターが閉まったお店が多く、寂れた感をヒシヒシと感じますが、昭和レトロな雰囲気を醸し出すこの町の空気は素敵です。 いつもこういうシャッター通りに来て思うのは、シャッターを閉めて寂れた町にしてしまうぐらいなら、お店をやってみたい人に固定資産税程度(ここだと年3万円ぐらいですか?)の負担でお店屋さんをさせてあげればいいのになぁーと思ってしまいす。 休日以外は儲からない立地なんですからそれぐらいは、するべきですよね。
「一の鳥居」が見えてきました! この日は天気も良く絶好の参拝日よりです。 この「鹿島神宮」を訪れるにあたり、私は「何故、大和(奈良)から離れた僻地に「鹿島神宮」、「香取神宮」の様な重要な神社が建立されているのか?」を考えていました。 これは、私の勝手な理屈付けですが、島根の「出雲大社」は、元は大和朝廷に属さない別の政権と言われていますが時代を経て、大和に吸収合併されています。 その吸収は、今後「伊勢神宮」と同列には出来ないが、それに準じる待遇を持って平和裏に行われたと考えています。 そして、それと同様に今では僻地となっている鹿島や香取といった土地も、縄文時代の日本では圧倒的に人口が多いエリアであった為、この地も大和朝廷に吸収される時に、「出雲大社」と同様に遇されたのかな?と太古のロマンを想像していました。 (勝手な私の推測ですので他所で話すと恥をかきますよ!)
鹿島神宮の「大鳥居」に到着です。 この鳥居は元々は、石で作られた「石鳥居」だったそうですが、2011年の東北地方太平洋沖地震で倒壊してしまったそうで、その後に境内から4本の巨木を切り出し再建された木製の鳥居になっています。
境内に入るとこの日は、「鹿島市菊花展」が行われており、丹精込めたであろう立派な菊が並べられていました。
菊の事を全く知らかったのですが、刺身の横に付いてくる食用の菊以外にも大小様々な菊の種類があったのですね。
そして、いよいよの参拝です。 神聖な場所ですので手水舎(てみずや)で清めてから向かいます。
本殿へ立ちふさがるの立派な「楼閣」は、「日本三大楼閣」の一つに数えられる楼閣で江戸時代の寛永十一年(1634年)に初代水戸藩主 徳川頼房によって造営されたものです。 この門は御覧の通り「Japan Red」 とも言われる美しい総朱漆塗が施されおり、2階建ての豪壮な楼閣となっております。 また、掛けられる扁額に記載された「鹿島鳥居」の文字は日露戦争の英雄 東郷平八郎によるものです。
夜に訪れると「楼閣」がライトアップされており、また違った見ごたえがあります!
楼閣をくぐった境内は広く、左手に御神籤(おみくじ)や御守りを扱う「授与所」があり、右手には「えっ!いきなり?」となりますが本殿(拝殿)が見えます。
参拝前に、ぐるっと見渡すと本殿の前にある「宝物殿」がありました。 ここには、鹿島神宮に古くより神宝として本殿内陣で秘められていた神剣「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」が展示されております。 この刀は、「平国剣(くにむけのつるぎ)」ともいい国宝にも指定されており指定名称は、「直刀・黒漆平文大刀拵(ちょくとう・くろうるしひょうもんたちごしらえ)」と言います。 特徴は、鞘を含めた全長は2.71㍍の長大な直刀で制作年代は定まっていないそうだが、刀身は奈良時代から平安時代のものといわれています。 実物のレプリカも展示されており実際に触る事が出来るので見学料300円を支払い見られる事をおススメします!
これより「本殿」へ参拝するのですが、本殿に詣でる前に「高房社」へ参拝するのが古例とされる為、先にこちらへ手を合わせます。 境内に入って正面の巨木の下に安置される「高房神社(たかふさじんじゃ)」には、祭神として「建葉槌神」が祀られています。 「建葉槌神」は、『日本書紀』によれば天香香背男討伐において武甕槌神によって派遣され活躍したと伝わります。 現在の社殿は元和五年(1619年)の本殿造替とともに造営されたものです。
そして、ようやくの「本殿」への参拝を行います。 境内に入ると直ぐにある「社殿」は、国の重要文化財に指定されており本殿・石の間・幣殿・拝殿で構成されています。 写真は、拝殿を写したもので、江戸時代初期の元和五年(1619年)に江戸幕府二代将軍 徳川秀忠によって造営されたものです。 この「鹿島神宮」は、蝦夷(北海道)開拓?攻略?の前線であった為、北面した社殿は北方の蝦夷を意識した配置になっています。 また、これから「奥宮」へ向かいますが、元々は「奥宮」が本殿として使用されていました。
夜に訪れるとライトによって昼間にも増して神々しく見えます。
本殿(拝殿)別角度
拝殿の右前方に小さくある御堂は「仮殿(かりどの)」といいます。 この仮殿は、本殿造営の際に一時的に神霊を安置するために使用される社殿です。 元和五年(1619年)に現在の本殿が造営される際に本殿と同時に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
ここから古代から続く森を進み「奥宮」に向けて進みます。
古代より神域として守られた森の木々は太く、神聖な雰囲気を感じる事が出来ます。
「奥宮」方面に進んで3分程で左手に「鹿園」があります。
「鹿園」横にある「さざれ石」は、これ単体でパワースポットとしても知られています。 これは、「一体なんだ??」となる人も多いと思いますが、これは長い年月をかけて小石の破片の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋める事によって一つの大きな塊になったものです。 岐阜にある「さざれ石」は、国家「君が代」の歌詞に歌われている事から同じ石繋がりで、ココでは大げさに展示されています。
この「鹿園」では、神の使いとされる鹿が約30頭程飼育されています。 『古事記』にある、天照大神の命を武甕槌大神(たけみかづち)に伝えたのは天迦久神(あめのかくのかみ)とされ、この神は鹿に由来する神とされる事に基づき、鹿島神宮では鹿を神使とされています。 春日大社の創建に際しては、神護景雲元年(767年)に白い神鹿の背に分霊を乗せ多くの鹿を引き連れて出発し、1年かけて奈良まで行ったと伝えられており、奈良の鹿も鹿島神宮の発祥とされています。 奈良県とはずいぶんと離れていますが、そんな時代から中央(大和)との繋がりが見受けられるのは当時から重要な場所であったという事が分かります。
「鹿園」は、柵に覆われており近づいて観る事が出来ませんが、横にある売店で売っているエサ(100円)を購入すると、柵の外から鹿と触れ合う事が出来ます。
エサを持って近づくと本気の鹿達がが近づいてくれますが、慣れないとちょっと怖いです。
鹿のエサやり後に更に進み「奥宮」を目指します。 途中に小さな「熱田社」が祀られています。 何故こんな場所に??との疑問はありますがとりあえずスルーで通り過ぎます。
そして「奥宮」に到着です!
「奥宮」にも本殿同様に「武甕槌大神荒魂」が祀られています。 この国の重要文化財に指定されている「奥宮」は、境内の社殿では最も古く江戸時代初期の慶長十年(1605年)に徳川家康により関ヶ原戦勝時の御礼として建てられた本宮の旧本殿です。 元和五年(1619年)の造替により現在地に移され奥宮本殿となりました。
「奥宮」前にあるお茶屋さんがあり、ここで休憩する事も出来ます!
「奥宮」への参拝後、「要石」なる石を観に行きます!
鬱蒼とした森の中に入って行きます。 道は多くの参拝客に踏み固められており歩きやすくなっています。
途中、森の中を観ると樹に飲み込まれた石が祀られていました。 周りには案内板等も無い為、どういった意味があるのかは不明ですが、たぶん未だ意味は無いと思います。 この石に意味が出るのは数百年後になるのかな??と勝手に想像しつつ写真をパシャリです。
非常に森が深い為、マイナスイオンが溢れており散策が気持ちいいです!
途中に、大鯰を調伏する山伏の石像が置かれており、外人さん達が写真を撮っていました。 この彫刻の周りには案内板等も無い為、この彫刻の意味は「要石」見学後の帰路にならないと分からないと思います。 今は未だ歴史的な意味のある彫刻でもないので行きはスルーで通り抜け、帰りに見学でいいと思います!
鹿島神宮の境内は広い為、一の鳥居から要石までは、結構距離があります。
「要石」が祀られる場所に到着です!
「要石」という名前もそうですが、多くの参拝者が訪れる事から、「どんな石なんだろう?」と勝手に想像し巨石を想像してしまいますが、実際観てみると直径30㌢程の真ん中へ凹んだ小さな石でした。 ちゃんと祀られているので「コレかっ!」と分かりますが、囲いが無ければ見落としてしまうと思います。 かつては、地震は地中にいる大鯰(おおなまず)が暴れる事で起きると信じられており、この「要石」は、大鯰を押さえつける杭の様なものとして信仰されていました。 見た目は小さいが地中部分は巨大で長く決して抜くことはできないと伝わります。 水戸黄門で有名な徳川光圀が家臣に7日7晩要石の周りを掘らせたが、石を掘り起こせなかったという、一体何がしたかったのか?不思議な伝承も伝わります。
「要石」の参拝後、来た道を「奥宮」まで引き返し「御手洗池」の見学に、山を下りて行きます。
そして、「御手洗池」の前にある茶屋が見えました!ここでは、店内では御蕎麦等が頂け、店前では団子が販売されていました。
折角なので、澄んだ水質が美しい「御手洗池(みたらしいけ)」を観ながら炭火焼の美味しそうな団子を頂きました!
「御手洗池(みたらしいけ)」は、崖から豊富な湧水が流れ込んでおり底まで見える美しい水でした。 かつては、一の鳥居がある大船津から舟でこの地まで進み、潔斎をしてから神宮に参拝したと伝わる事から、池の名前もそれに由来されています。
「御手洗池」に流れ込む湧き水の源流が側にあり、柄杓で多くの人が口をゆすいでいました。
この豊富に湧く、湧き水が「御手洗池」に注がれています。
帰りには屋台で今川焼が売ってましたので、食べながら町の散策をして帰路につきました!
以上で、「鹿島神宮」の御案内となります。 古代より人々に信仰されるこの神社には、今尚人々を惹きつける神々しい雰囲気がありました。 未だ行かれていない方は是非とも参拝に訪れられることをおススメします! 御精読有難うございました。
やろうかなぁ?やめとこうかなぁ??と悩んだら ”犯罪や人に迷惑をかける事以外、全力でやってみて下さい。”の恩師の言葉を、元にとりあえず何でもやってみる、趣味は、旅行・骨董品収集のいくちゃと申します。(最近は、ドローンも楽しいです。)
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